ゴブリン結成ー黄金期

サスペリア2

『サスペリア2』

 ダリオ・アルジェントは『サスペリア2』のサウンドトラックには従来の映画音楽的ではないサウンドを望んでいたが、ジョルジオ・ガスリーニの書いた曲はダリオを納得させることができなかった。ガスリーニはアルジェントの『ビッグ・ファイブ・デイ』の音楽も担当しており、続けて『サスぺリア2』も手掛けることになっていたが、ジャズを全面に押し出したサウンドにアルジェントは納得せず、ガスリーニの書いた音楽を若いバンドに演奏させようとした。そこで、アルジェントとダリア・ニコロディは『チェリー・ファイブ』に白羽の矢を立てた。『チェリー・ファイブ』のプロデューサーだったカルロ・ビクシオはアルジェント映画のサントラも担当しており、ビクシオは『サスぺリア2』の音楽のためにロックバンドを探していたアルジェントに、彼らの曲を聴かせたのだった。アルジェントはこれを非常に気に入り、彼らに演奏を求めた。

 当初はガスリーニの書く曲のアレンジだけをすることになっていたが、初めて2週間後、よりモダンな曲を求めていたアルジェントと音楽性の異なるガスリーニは喧嘩別れしてしまう。そのため、ゴブリンは演奏だけでなく、足りない部分のオリジナル曲を書くこようにアルジェントから頼まれた。クラウディオ・シモネティがキーボード、マッシモ・モランテがギター、ファビオ・ピニャテッリがベース、ウォルター・マルティーノがパーカッションを担当。クラウディオ・シモネッティの家で3日間かけて作曲が行われた。テーマ曲はシモネッティのワイン蔵で作曲されたという。『チェリー・ファイブ』に収録されている『白鳥の殺意』の一部が『サスぺリア2』でも使用されている。アルジェントはガスリーニの曲を少しだけ残し、あとの部分はボツにした。そのため、ゴブリンは20分程度の音楽を付け足した。

 アナログレコードのA面に収録されている『サスペリア2』のテーマ、死の滅亡、狂った操り人形、の3曲は彼らのオリジナル。B面のワイルドセッション、ディープシャドウズはジョルジョ・ガスリーニが作曲し、ゴブリンが演奏した。スクールアットナイト、ジャンナはジョルジォ・ガスリーニの作曲で、演奏もガスリーニの楽団が行っている。『サスペリア2』のテーマの特徴的なアルペジオはファビオ・ピナテッリが考え出し、クラウディオ・シモネッティがコードを付けた。すべての曲の録音はローマのオートフォニックスタジオで行われた。

 ゴブリンにとって『サスペリア2』の成功は予期せぬものだった。映画『サスペリア2』は爆発的なヒットとなり、続いてサントラ盤がヒットした。1年もの間、イタリアのヒットチャートに入ったままとなり、イタリアの音楽界のなかでも異例の売れ行きをみせた。

 『サスペリア2』では、シモネッティはミニムーグ、ハモンドオルガン、メロトロン、チェレスタ、ハープシコードなどを演奏。1万5000本ものリードがある教会のオルガンも使用した。

 『サスペリア2』はイタリアのチャートでシングル、アルバムとも15週間に渡って1位を維持し続け、10ヶ月で100万枚を売り上げるヒットとなった。1年以上の間、10位以内にランクインし続けた。今日まで300万枚以上が売れ、日本やカナダでも成功を収めた。 

 制作の途中で、『イ・リブラ』に参加するため、ドラマーのウォルター・マルティーノが抜け、アゴスティーノ・マランゴロが加わった。『死の滅亡』にはマランゴロのアイデアが含まれている。

Walter Martino durms
Fabio Pignatelli bass
Massimo Morante electric & acoustic guitar
Claudio Simonetti keyboards

コンサート、劇伴に活躍

コンサートの広告

 ゴブリンはリカルド・コチアンテとのジョイントでジェノバのSIMやローマのパラスポルトで『サスペリア2』のコンサートも行っている。ジェノバで行われたライブはビデオ撮影もされ、『フェノミナ』のなかで一瞬だけ見ることができる。深夜、付けっぱなしになっているテレビで流れているライブがそれ。観客は1200人ほどで、どちらにしても大掛かりなツアーをやることはできなかった。ツアーの途中で交通事故を起こしたため、ツアーは途中で打ち切らざるを得なかった。

 エンリコ・シモネッティはゴブリンの創成期に多大な影響を与えている。エンリコはレコード会社との契約や、レコードの発売などを徹底的にサポートした。エンリコは自分が作曲した映画音楽『ガンマ』の演奏をゴブリンに発注。この曲もヒットし、『ガンマ』と『サスペリア2』は75年のチャートを競い合った。

 ゴブリンは平行して、チネボックスのセッション・バンドとして、ラウラ・ジェムサー出演のAmore Libero(Free Love)(ピエール・ルドビコ・パボーニ監督)、La Preda(ドメニコ・パオレラ監督)、Grazie Nonna!(マリーノ・ジローラミ監督、テレビ放映題:青い経験 )などの劇伴の演奏に参加する。Amore LiberoとLa Predaはファビオ・フリッツィとビンチェ・テンペラの作曲 、「青い経験」はエンリコ・シモネッティの作曲だが、ゴブリンはそれぞれの演奏を手掛けた。

殺意の動機

『殺意の動機』

 1975年、 実質上のセカンドアルバムとしてマウロ・マカーリオ監督の『殺意の動機(PERCHE' SI UCCIDONO)』を発表する。このサントラ盤は音楽プロデュースを ウィリー・ブレッザが担当、『イル・レアーレ・インペロ・ブリタンニコ 』はゴブリンの変名である。『サスペリア2』のメンバーのほか、キーボード奏者としてのちに映画『サンゲリア』などの音楽を手掛けるファビオ・フリッツィが加わっている。また、トニー・タルタリーニが1曲だけボーカルで参加している。A面の4曲はこの5人の作曲であり、B面はウィリー・ブレッザの作曲によるもの。演奏は全11曲とも彼らが担当している。エッダがスキャットによるエッダという曲もある。このメンバーでの活動は本作のみで終わった。

1)叙事詩 EPOPEA
2)アンモニア AMMONIACA
3)カル KALU'
4)エッダ EDDA
5)叙事詩(リプライズ) EPOPEA(Reprise)
6)最悪な出来事 MY DAMNED SHIT
7)12 1/4 DODICI E UN QUARTO
8)ブロック BLOCK
9)R.I.B. R.I.B.
10)アポシーク APOTHEKE
11)放心 DISTRAZIONI

ローラー

『ローラー』

 当時、マッシモ・モランテとクラウディオ・シモネッティは『ジェネシス』や『イエス』のようなポップ・ロックやクラシカル・ロックを好み、ファビオ・ピニャテッリとアゴスティーノ・マランゴロはジャズやレッドツェッペリンのような曲を好むといったように、メンバーの嗜好はさまざまだった。こうしたバラバラなメンバーの中で1976年にセカンドアルバム『ローラー』が生まれた。『サスペリア2』が大成功を収めた後で、映画に縛られない曲で構成されるアルバムに対する需要があったからだ。75-76年の間に新曲を書き、チネボックスがリリースした。レコーディングには6カ月をかけた。

 ゴブリンからドラマーのウォルター・マルティーノが抜け、代わりに『フレア』 、『エトナ』に参加したアゴスティーノ・マランゴロが加入。さらにキーボード奏者のマウリツィオ・グアリーニが加わり、ゴブリンはオリジナルアルバム『ローラー』を発表、地中海的なジャズ・ロックを展開している。シングルカットされたタイトル曲の『ローラー』は楽曲の構成が『サスペリア2のテーマ』に酷似している。5曲目の『ゴブリン』はイタリアンロック史上に残る名曲である。

 『ローラー』の一部の曲はジョージ・A・ロメロ監督の『マーティン』がイタリアで公開される際に追加的な音楽として使用されている。脱退したウォルター・マルティーノはイ・リブラを結成、マリオ・バーバ監督の『ザ・ショック』 の音楽を担当している。

 しかし、『ローラー』は『サスペリア2』のようにヒットしなかった。その当時、1万枚しか売れなかったのだ。『サスペリア2』のツアーを行っている間、ゴブリンは『ローラー』をヒットさせようと努力したが、うまくいかなかった。ちなみにローラーのジャケットに描かれているバイオリンを弾く悪魔のロゴを考案したのはゴブリンのエディターのカルロ・ビクシオである。アルバムの商業的失敗により、メンバーはゴブリンはサントラを演奏することを運命づけられたバンドだということを認識した。

 『ローラー』でキーボードを担当したマウリツィオ・グアリーニは優秀なミュージシャンであっただけでなく、コンピューターの使い方に長けていた。マッキントッシュで利用するためのシーケンサーのプログラムをイタリアで初めて書いたのはグアリーニだった。このプログラムは「yuk」と呼ばれ、ローマのミュージシャンたちはマッキントッシュをシーケンサーとして利用するときには必ず彼の書いたプログラムを使用した。マウリツィオ・グアリーニはクラウディオ・シモネッティが、ドラムスのウォルター・マルティーノとベースのステファーノ・チェーリとグループを結成している間、シモネッティの代役としてゴブリンに加入したのが真相である。グアリーニはその年の冬のツアーにも参加したが、その後、グアリーニはバンドを去り、ゴブリンは4人編成に戻った。


1)ローラー ROLLER
2)アクアマン AQUAMAN
3)スニップ・スナップ SNIP SNAP
4)蛇の目覚め IL RISVEGLIO DEL SERPENTE
5)ゴブリン GOBLIN
6)ドクター・フランケンシュタイン DR.FRANKENSTEIN

Agostino Marangolo percusion& durms
Fabio Pignatelli electric & ripper bass
Massimo Morante electric & acoustic guitar
Claudio Simonetti clavinet, organ, piano, minimoog, logan string machine
Maurizio Guarini Fender rhodes piano, Honer pianet, moog, clarinet, piano

chi?

『CHI?』

 1976年、ゴブリンはサードシングル「chi?」を発表する。「chi?」はテレビ番組「Sette storie per non dormire」(眠れない夜のための7つの物語)のためのサウンドトラックだ。この番組はまず、ジャーロ(推理劇)が紹介され、その後で、参加者が犯人を推理するというものだった。曲はジュゼッペ・カルーソとジュゼッペ・バウドによるもので ゴブリンは演奏と編曲だけを担当した。この頃のメンバーは、ハービー・ハンコックやチック・コリアなどのフュージョンに影響を受けていた。アルフォンソ・ジャクソン、ジャコ・パストリアスなどがバンドにおけるベースの役割を完全に変えてしまった。彼らのテクニックは驚異的であり、ファビオ・ピニャテッリがテクニックの向上を目指して練習に励んだのもこの時期だった。

サスペリア

『サスペリア』

 ゴブリンは1977年、『サスペリア』のサウンドトラックを制作する。ゴブリンはダリオ・アルジェントと強力な関係を保ち、ロックの典型的な演奏ではなく、音にエフェクト処理を加えたりして、サントラらしい音作りを心がけた。

 『サスペリア』はダリオ・アルジェントとの協力関係が最も強く結ばれた作品だ。『サスペリア』の制作ではキース・エマーソンが使っていた特別製のムーグシンセサイザーをロンドンから取り寄せた。アルバム2曲目の「マルコス」では初めてコンピューターをシーケンサーとして使用。メロトロンと教会のオルガンの音を混ぜ合わせて効果をあげた。アルジェントは中世の魔術を思い起こさせるような曲を欲しがった。数週間の調査の末、プロモーターとしてチネボックスで働いていたアイリーン・マラテスタというギリシャ人の女性がほんの冗談でラテン語の詞の付けられた古代のメロディをゴブリンに送ってよこした。それは1500年から1600年の間に書かれたもので、「Le tre streghe sull'albero」(木の上の3人の魔女)と題されたものだった。それは、『サスペリア』の結末と偶然にも似たものだったため、ダリオ・アルジェントは強い感銘を受け、ゴブリンの書いた曲をすぐに採用した。

 『サスペリア』では3ヶ月間スタジオに入って、バズーキやタブラ、電子楽器、アコースティックギターなど、あらゆる楽器を使って実験した。本作は今まで以上に映像を喚起する音づくりとなっている。

 『サスペリア』のサントラは撮影開始時にはすでに完成し、撮影は音楽をセットで流しながら行われた。役者たちの雰囲気を盛り上げるためにテープをバックで流したのである。ただし、映画の仕上げにあたっては、音楽を完全なものに差し替えたことはいうまでもない。当時、『サスペリア』のアルバムは40万枚程の売り上げとなった。映画と同様、最も売り上げが大きかったのは日本だった。ちなみに『サスペリア2』のアルバムが一番売れたのも日本である。テーマ曲での邪悪なコーラスはクラウディオ・シモネッティの声である。

 『サスペリア』のアルバムにはクレジットがないが、レコーディングにはマウリツィオ・グアリーニも参加している。レコーディングの後、グアリーニはプロデューサーのカルロ・ビクシオとギャラをめぐって言い争いとなった。そしてグアリーニはバンドを去る。

Claudio Simonetti Mellotron, organ, string machine, celesta, electric & acoustic piano, Minimoog, Moog system 55
Massimo Morante electric & acoustic guitar, buzuki, voices
Fabio Pignatelli bass, tabla, acoustic guitar, voices
Agostino Marangolo drums, percussion, voices

ザ・ドープ・ウェイ(ローマ麻薬ルート大追跡)

『ザ・ドープ・ウェイ』
 1977年、ゴブリンはエンゾー・ジローラミ(エンゾー・G・カステラーリ)監督で、デビッド・ヘミングスとファビオ・テスティが主演の麻薬捜査官の活躍を描いた犯罪アクション『ローマ麻薬ルート大追跡』の音楽を担当する。日本では『ザ・ドープ・ウェイ』として輸入盤に日本語解説を付けてリリースされた。キーボードよりもむしろギターとベースを強調した音づくりとなっている。曲調はバラエティに富む。 
1)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス1)
LaVia della droga(seq.1-Main Titles)
2)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス2)
LaVia della droga(seq.2)
3)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス3)
LaVia della droga(seq.3)
4)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス4)
LaVia della droga(seq.4)
5)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス5)
LaVia della droga(seq.5)
6)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス6)
LaVia della droga(seq.6)
7)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス7)
LaVia della droga(seq.7)
8)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス8)
LaVia della droga(seq.8)
9)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス9)
LaVia della droga(seq.9)
10)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス10)
LaVia della droga(seq.10)
11)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス11)
LaVia della droga(seq.11)
12)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス12)
LaVia della droga(seq.12)
13)ザ・ドープ・ウェイ(シークエンス13)
LaVia della droga(seq.13-Finale)

SOLAMENTE NERO

『SOLAMENTE NERO』

 アントニオ・ビド監督の連続殺人もの『SOLAMENTE NERO』のサントラの演奏を担当する。ダリオ・アルジェントを敬愛するビド監督はゴブリンの起用を希望したが、チネボックスとの契約上、ゴブリンが作曲を担当することは許されず、クレジットなしの条件でゴブリンが演奏のみを担当した。作曲はステルヴィオ・チプリアーニが手掛けている。ただ、サウンドはゴブリンそのものといってよいだろう。短い曲がほとんどを占める。

ゾンビ

『ゾンビ』

 『Squadra Antimafia』の音楽を担当したあと、1978年、ゴブリンはトラファルガー・スタジオを開設し、『ゾンビ』のサントラを制作した。映画は大成功を収めたが、音楽はそのようにならなかった。映画は米国で7000万ドル以上の収入をあげたが、ゴブリンには米国での配給収入に関する権利がなかったからである。

 シモネッティがピアノを弾いている『忘却』はエンリコ・シモネッティが書いた曲から着想を得たものだという。

 『ゾンビ』は当初、ロメロがライブラリーの音源を使用した曲のみが使用されていた。アルジェントは『ゾンビ』をイタリアで配給するに際して、曲が気に入らなかったため、ゴブリンに新しいスコアを依頼した。ロメロもゴブリンの曲を気に入り、米国公開版でもゴブリンの曲が使われている。

 心臓の鼓動を思わせるリズムが印象的な『メインテーマ』、スピード感溢れるドラムを堪能できる『ゾンビ』など、多彩なアルバムだ。

マークの幻想の旅

『マークの幻想の旅』
 1978年には、オリジナルアルバム『マークの幻想の旅』を発表。全8曲中7曲がマッシモ・モランテのボーカル入りで、ゴブリンが従来のイメージチェンジを図ろうとした野心作である。ドラッグや暴力のような人間と同じ問題を抱えた、幻想の世界を旅するマークというカブト虫の物語というコンセプトアルバムだ。

 だが、『マークの幻想の旅』はゴブリンにとって最大の商業的失敗作となった。音楽的には水準が高いが、最大の欠点は楽曲にマッシモ・モランテのボーカルが調和していないことだと多くの批評家は指摘する。これ以降の作品ではマッシモ・モランテのボーカルは改善されていくが、このアルバムではうまくいっていない。

 このアルバムのなかでは『ビリディアナの滝』と『夜』の評価が高いが、いずれもインストルメンタルが中心の曲である。ファビオ・ピニャテッリはピータ・ガブリエルが歌うことを想定して、『マークの幻想の旅』の楽曲を作曲した。『マークの幻想の旅』はドラッグを非難するメッセージを持ったサイケデリックなレコードだという意見もあるが、ピニャテッリはこのレコードが社会的メッセージを持ったものだとは捕らえていない。おそらくマッシモ・モランテの歌詞の影響でメッセージ性を持つアルバムのように見えるのだろう。このアルバムからも数曲が『マーティン』のイタリア公開版で使用されている。

 『マークの幻想の旅』の失敗がバンドの分裂を決定付けた。ファビオ・ピニャテッリとアゴスティーノ・マランゴロはサントラの仕事の継続を望んだが、クラウディオ・シモネッティとマッシモ・モランテは反対だった。


1)マークの幻想の旅 MARK IL BAGAROZZO
2)ヴィリディアナの滝 LE CASCATE DI VIRIDIANA
3)ゴブリンの世界 TERRA DI GOBLIN
4)ダルジェントの息子 UN RAGAZZO D'ARGENTO
5)舞踏 LA DANZA
6)華麗なオペラ OPERA MAGNIFICA
7)夜 NOTTE
8)・・・そしてロック ...E SUONO ROCK

Agostino Marangolo percusion, durms
Fabio Pignatelli bass
Massimo Morante guitar, vocals
Claudio Simonetti keyboards
    
guest:
Antonio Marangolo sax

モランテ脱退
 この頃からマッシモ・モランテはボーカリストとしての道を目指し、クラウディオ・シモネッティはディスコミュージックに興味を持ち始めた。アゴスティーノ・マランゴロ、マウリツィオ・グアリーニ、ファビオ・ピニャテッリの3人はそうした方向に進む気はなかった。シモネッティが3人の同意のないまま、新しいプロデューサーを探そうとしたことがきっかけで、グループは解散状態になった。ゴブリンを脱退したマッシモ・モランテはその後、『CORPO A CORPO』『ESCLUSIVO EP』などのソロアルバムを制作する。誰もゴブリンの名前を使う権利を主張しなかったため、ファビオ・ピニャテッリがゴブリンに関する一切の契約を引き継ぐことになった。

 メンバー間で大きな諍いがあって、ゴブリンが解散状態になった訳ではない。78年の終わり頃、クラウディオ・シモネッティとマッシモ・モランテは父親を亡くし、二人は他の道の可能性を模索し出したのであろう。

   

シモネッティ脱退
 ディスコ音楽に興味を持ち続けていクラウディオ・シモネッティは78年、ゴブリンを脱退する。メンバーは絶えず議論をしており、バンドのマネージメントについてもやはり議論があったからだった。ゴブリンも一時期程の人気を失いつつあった。

 シモネッティは音楽プロデューサーのジャンカルロ・メオと出会い、バンド、イージーゴーイングと歌手ビビアン・ビーのための曲作りとプロデュースをする機会に恵まれた。シモネッティは米国で彼らと一緒に仕事を続けた。シモネッティにとって、米国での生活は人生で最も幸福な時期の一つだった。また、ソロアルバムも制作する。元ゴブリンのドラマーであったウォルター・マルティーノも一時的にイージーゴーイングに加入し、シモネッティとともに活動する。シモネッティはイージーゴーイングの曲のほとんどの作曲を手掛け、ギターも披露してみせた。